親子で言い募った過去があります

2022年06月09日

私の親父は亡くなって12年経ちます。同年の春に母が亡くなり、後を追うように同年の暮れに親父も亡くなりました。

親父は今の韓国の仁川で生まれ(戦前、日本が彼の地を統治していた頃ですね)育ちましたが、敗戦国となって着の身着のまま、釜山から船に乗って下関港に帰って来ました。

父の父(私の祖父)は仁川で、漁船を作り生計を立てていました。親父も見よう見まねで船を造れるよになり、帰国後は熊本の漁港に小さな造船所を構えて、地元の漁師の皆さんに船を造って売ることで生計を立てました。

そんな父を持つ私は中学から英語が大好きになりました。そして東京の大学で英語を学ぼうと上京しました。

学校を卒業すると、そのまま海外で仕事をしようと思い、大手の建設会社に就職し、そのまま中東のイラクに行きました。

当時はバブル時代の真っただ中でした。給与は良いし、イラクの首都のバグダッドに繰り出しては遊んでいました。

3年ほど経つと、もともと自分で何かを起こそうと思っていた私は帰国することにし、日本へ戻って来たのです。

そして取りあえずは親父が忙しいと言っていたこともあり、親父の造船所に就職しました。

そして私が入ってから、仕事は急伸し、大きな東京の財閥系の会社や関西の大企業からも仕事を提携したいと連絡を頂くようになりました。

併せて船を造る材料は(当時は既に材料が全て強化プラスチックに代わっていたので)台湾に材料や部品を仕入れに頻繁に渡航するようになっていました。

仕事は盛業でしたが、逆に私と父は上手くコミュニケーションが取れなくなりました。

その原因は、私から観ると親父の言い分や考えが粘着的で、質素に考えていた私との間に意識の齟齬が合ったからだと思います。※親父は何が原因だと思っていたのか今となっては知る由もありません)

結局、日本に帰ってから大よそ5年を親父の工場で過ごした私は、32歳の頃、独立すると言い放ち、家を出ました。

それから親父が亡くなるまで、コミュニケーション不全が長く続き、最後まで気軽に話し合えない状態でした。

こんな自己体験が有ってから、周囲の人には自分と似たような終わりを迎えて欲しくないと強く思います。

親は先に死ぬ、とか年を取れば少しずつ親は子の話に耳を傾けるとか・・・・今はこれらの言葉は本当だな!と強く思います。本当に強く強く共感し、思います。

今日は私の親との関係を書きましたが、天国の親父に申し訳なかったという気持ちが少しは届いたかなあ・・・・。


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